―「私は、自分で通訳になろうと思ってなったわけじゃないの。」
そう言って笑みを浮かべる国永史子さん。国永さんは現在、ボディサイコセラピー通訳の第一人者としてご活躍されていますが、何故通訳になったのかとお聞きすると意外な答えが返ってきました。
本当に流れるように通訳になったのです。もとはといえば、近所の人がただの通訳を探していて、私はたまたまそこにいただけ。
たまたま近所にワークショップを開催する人が海外から引っ越してきて、英会話レッスンもやっていた。私はそこに英会話を習いに行っていて、通訳を依頼されたのです。
最初にボディサイコセラピーが日本に入ってきたのは1980年のはじめ頃ですが、当時はワークショップを開催してもほとんど赤字のような状態でした。もちろん通訳を雇ってもお金をあげられない。そこで、ただで通訳してくれる人を探していたのです。
当時私は医者と結婚していたので、主婦で時間がありお金をもらわなくても大丈夫な私に白羽の矢がたったというわけ。
選んだとか選ばれたというよりはその時の状況がそうさせた。本当に偶然だったのです。
―では、ボディサイコセラピー業界の通訳として有名になったきっかけは何ですか?
あるセラピストがご飯を食べているときに突然、「こういう活動が日本で根付くとしたら、やる人は君しかいないよね。」と言われました。
自分は単なる通訳としていたのに不思議でしたが、あの時、もしかしたら選ばれていたのかもしれません。(自分の感覚としては、同じ通訳はたくさんいたけれども皆辞めていって、選ばれたというより残ったという方がしっくりくるのですが。(笑))
そしてもう一つ、面白い偶然がありました。
とある出版社でただで翻訳をしていた頃、突然、これからこのボディサイコセラピーが広まる時にバイブルになるであろうと言われていたアレクサンダー・ローエンの「身体と性格」という本を扱うことになり、それほど心理学などの知識も無いままにそれを訳したのです。
しかしそれが認められて、その他のローエンのものを訳すことに…。
自分としてはその能力があるから通訳や翻訳の仕事を選んだというよりも、与えられた偶然を通し逆に自分にはそういう能力があるということを発見していったという感覚なのですが、そうした偶然を通してこの業界の通訳としての道が自然と開かれていきました。
他の人にとってこのような専門書の翻訳は苦行でも、私にとっては楽しくできる。自分で意識して磨いて何かをつくりあげたというよりは、自分にもともと備わっていたものが偶然を通して発掘されていったという感じなのです。
―全て偶然、たまたまということですが何故そうなったと思われますか?
今考えると今までに自分がしてきたことが“徳の貯金”として蓄えられ、神のような存在に引っ張られたのではないかと思っています。そうでなければ、あまりに自然すぎる出来事だったのです。
振り返ってみれば、もともとは楽チンな医者の妻でそのままでも何不自由することはなかったと思います。その頃から比べれば金銭的な財産は減少の一途をたどっていますし(笑)。
しかし、偶然の出会いによってどんどん自分の中に備わっていた才能が開花していった。この道へと進んでゆく中で周囲の反対や失敗もあったけれど、私の今の仕事を通して何かを得たというフィードバックを皆さんからもらうと全てが吹き飛び、何ものにも変えがたい喜びを感じるのです。
国永史子さんプロフィール
1981年、バイオエネルギー研究センターをデニス・ホーナーと創立する。デイビッド・ボアデラ、ルーベンス・キグネル、ヘレン・デービス、ウィル・デービスらを海外から招き、セミナー、ワークショップを開催、年2回機関誌「バイオエネルギー・ジャーナル」を編集、発行する。ライヒ派セラピーとライヒの科学的研究の紹介を続ける。
1982年からデニス・ホーナー、シルビア・ボアデラらとセラピーの自助グループを作り、トレーニングを行う。またボディサイコセラピー関連の多くの翻訳を手掛ける。















