近鉄線で奈良へ向かっていると、途中で車窓の外に広大な空き地が広がる場面に出くわす。何だろう?と初めは思っていたが、そのうちに奈良の都の跡か、と思い至った。よく見ていると通り過ぎる広大な空き地の中に「平城宮跡」という看板が、ぽつんと立っているのも見えた。広い空間の中に幾筋か道も通っており、人が歩く姿も見えた。あのただぽっかりと開けた場所に立ってみたい。いったいどんな感じなのだろう?
実際に降りたってみた日。駅から延びる車量の多い道を、行き当たりばったりに進み、しばらくして敷地の端に辿り着く。敷地の向こう側には、こちら側の車が行き交っているような、少し賑やかな世界とは全く別な空間が開けていた。明るい陽光が何ものにも遮られずに降り注ぎ、空も頭上一面に広がり、暦の上では冬なのだが晴れて暖かなせいもあるのか、ツグミなどの声に混じってヒバリまであちこちで鳴いているのが聞こえてくる。敷地内には所々に史跡が点在するようだ。このだだっ広さ。いったいどのくらいあるのだろう?
あまりに広いのでレンタサイクルが無いか訊こうと、敷地内に入ってすぐの所にあった建物に立ち寄ってみる。そこは平城宮跡の資料館で、館内には詳しい資料や展示が並んでいた。ここの面積は、例えれば甲子園球場が30個入るほどなのだそうだ。ボランティアのおじさん達が親切に色々解説してくれる。「あの中では、ここで一番重要な建物である大極殿を再建中で、2010年の完成を目指している。2010年は710年のこの平城京への遷都から、ちょうど1300年にあたるんですよ。」「あそこに見えているのが朱雀門で、当時の天皇が居られた大極殿のちょうど南に作ったんです。大極殿からあの朱雀門の方角を見て、右を右京、左を左京としたんですよ。」「回廊を復原しようという計画もあるんです。」 大極殿は、重要な国家儀式の際に、天皇が出御する建物だったそうだ。今で言えばちょうどお正月などの一般参賀の舞台がここだった、ということだろう。電車から見て「大きな倉庫」だと思っていたのは、建設中の大極殿全体を丸ごと覆った素屋根という施設だった。そこに行けば宮大工の作業も見られると教えられ、その大きい建物の方へ向かう。大極殿の復原工事の様子を公開する施設が手前にあり、中から隣接する作業場の様子なども見られるようになっていた。覆いが取り払われ、復原された見事な大極殿が姿を現わす2年後が楽しみになった。
大極殿の復原工事公開施設の前に立つと、ちょうど平城宮跡全体を一面に見渡せる位置になる。ちょうど正面に朱雀門が見える。その間に広々とした敷地が広がっている。時おり見かけるのは、ウォーキングを楽しむ人、小さい子供と遊ぶ人、二人連れでの散策、写真を撮る人、回廊跡にもたれかかりぼんやり空を仰ぐ人等々。皆思い思いにこの広大な空間を楽しんでいた。
敷地の東南の端には「東院庭園」があり、庭園の中は池の周りを巡れるようになっていた。ここもまた発掘で池や庭園の跡が出てきたのを復原したものだという。
(写真右:東院庭園)
大きな3辺の端をぐるりと辿る形で、朱雀門の前まで行き着いた。この門は1998年に復原を終え、先ほどの東院庭園と同時に公開されたそうだ。門の外側にも広い空き地が伸びている。この朱雀門から、幅74mもある平城京のメインストリートである朱雀大路が、当時は平城京の入り口である羅城門(小説の「羅生門」は平安京のあった京都の方が舞台)に至るまで、まっすぐ南へ4kmも続いていたのだという。
巨大な朱雀門の前の広場では、時には外国使節の送迎や歌垣などが行なわれていたらしい。巨大な門の下に立つと、平城宮全体を見渡すことができる。北側の端のちょうど正面に、建設中の大極殿が見える。覆いが取り払われ、完成した建物が姿を現わす時が待ち遠しいと改めて思う。この巨大な門から大極殿まで、真っ直ぐ歩いていくのを想像してみる。その通りはどのようになっていたのだろう?どんな人達が、その通りを歩いていたのだろう? シルクロードの東の終着点とも呼ばれる平城京。当時の華やぎはいったいどのようなものだったのだろう?ここは夢の跡なのか。このぽっかりと空いた大きな空間にいっときあったであろう賑わいやたくさんの人の行き交う姿を想像する。ここは、過去と今の時間が交差する空間だ。
(最後の写真:朱雀門)
(取材・文 テジマアキ)














