
林の中を続く古道を行くうちに、ぽっかりと展望が開けた場所に出る。見渡すかぎり、幾重にも山並みが遥か彼方まで連なり、広がり、続いている。この連なる山々の姿を背にして、ひっそりと古びた小さなお地蔵さんが立っている。以前この光景を写真で見て、このお地蔵さんは独りでさぞ寂しいだろうと思っていたが、山道を挟んで向かい合わせにもう一体、小さなお地蔵さんがおられた。それにしてもやはり山深い寂しい場所だ。いつの時代からか、この場所にお地蔵さんはぽつんと立ち、時折行き交う人達の姿をずっと見守り続けてきたのだ。

ここに立つと、日本は本当に山が多い国なのだということを実感する。交通が著しく発達した現代でさえ、ここはやはり遠く奥深い場所のままだ。幾山も越えて、どれほど自分がはるばる歩んできたか。ここで人は皆、その辿ってきた道のりにまでいっとき思いを馳せ、感慨を覚え、遥か彼方への思いを新たにするような瞬間を持つだろう。昔も今も、ここはそのような地点だったのだろうし、これからもそうであり続けるのだろう。

往時は茶屋や宿泊所が要所要所にあったそうだが、現在の小雲取越は、途中に幾つかの茶屋跡が残るだけで、人家も全くない山の中の道がひたすら続く。道中の所々には、熊野にまつわる歌碑や、いつの時代のものかも知れぬ小さな供養塔などがたつ。
“歩まねバ供養ならずと亡き母がのたまひてゐし雲取に来ぬ” 嶋 正史 …石堂茶屋跡の歌碑より
いにしえの時代、熊野は死者の霊が集まる「隠国」(こもりく)と呼ばれた。聖地であり浄土の地とされた熊野をめざして数多くの人々が巡礼するようになり、平安時代後期には、歴代の上皇たちによる熊野御幸が流行した。中でも後鳥羽上皇は実に34回も熊野に詣で、その行程は20日~1ヶ月程にも及んだといわれ、同行した藤原定家は「山川千里も過ぎて、遂に宝前に奉拝す、感涙禁じ難し」と述べている。「貴賎を問わず、男女を問わず、信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」全ての人を受け入れるという熊野への巡礼は、上皇や貴族の間から庶民層へと広がり、15世紀頃を頂点として、当時“蟻の熊野詣”と形容されるほど多くの人々が押し寄せたという。

古くから熊野三山をめざす人々が通った周辺地域からの幾筋もの道が、現在「熊野古道」と呼ばれるものだ。平安末期にまとめられた梁塵秘抄でも既に紀伊路、伊勢路といった記述がみられる。現在も残る主なルートは、紀伊路(京都・大阪~紀伊田辺) 伊勢路(伊勢~熊野) 大辺路(おおへち:紀伊田辺~新宮) 中辺路(なかへち:紀伊田辺~熊野本宮大社~熊野那智大社~新宮) 小辺路(こへち:高野山~熊野本宮大社) 修験路である大峯奥駈道(おおみねおくがけどう:熊野本宮大社~大峯・吉野)で、小雲取越は、中辺路の熊野那智大社から熊野本宮大社を目指すルートの一部である。
2004年にこのエリアを含む「紀伊山地の霊場と参詣道」は、守るべき文化的景観の一つとして世界遺産に登録された。
小雲取越の古道の最終目的地である熊野本宮大社には、現在も多くの人々が訪れている。

かつて本宮大社があった場所は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、今は巨大な鳥居が建つ。

(写真・文:テジマアキ)














